第2章 従来型「講義」の諸類型と問題点
法学の授業のあり方を考える前提として、長年行われてきた形式を類型化してみよう。
もっともオーソドックスな講義形態である。教員が教壇に立ち、一方的に話す。学生たちはノートを取る。学生たちが声を出す機会は皆無である。
学生たちが講義に対する意識レベルを保ち、それを間断なくノートに書き続けることには、重要な効用がある。耳から聞いた内容を、理解できる場合も理解できない場合も、自分の力で文字、文章として記述するという能動的な作業を続けるからである。
他方、講義内容を記した「講義ノート」を教員が用意し、それに基づいて語るか、中にはそれを読み上げる形で講義する教員もいる。その場合、教員が口語的表現で話しかける場合よりも文章表現に近い言語で語られるため、学生たちにとってはより難解となる。学生たちは90分〜180分に及ぶ講義の間、提供される情報に集中力を傾注し続ける必要がある。
口頭で行う(1)の「講義」に加えて、「レジュメ」と称する書面を講義の冒頭で教員が学生に配布する形態である。そのレジュメは、講義の概要あるいはトピックを数点から10ポイントほど列挙したA4判1枚のものから、A3判数ページにわたって詳細に記述してあるものまで、さまざまである。
トピックが書かれたレジュメを手元に置いて講義を聞くと学生たちは、その日の講義全体を見渡すことができる。いま進行している講義が全体の中のどのあたりかを常時把握できるし、その後の展開も予測できる。理解の助けになるし、安心感があるだろう。
一方、講義内容を詳細に記述したレジュメはどのような効果があるだろうか。教員によっては、講義の内容がほぼそのままレジュメに記述されていて、なかばレジュメを読み上げるに近い講義も行われている。学生たちからは「レジュメをもらうと安心する」という声が聞かれる。当然、学生たちは講義内容を自分でノートに記述することは少ない。講義の冒頭でレジュメだけ受け取って退室する学生もいるし、講義に出席せずに後からレジュメのコピーを受け取る学生もいる。学生の自律的能動的習熟の観点からは、詳細なレジュメの配付は有益とは言えないだろう。
レジュメ提供講義型の派生型として、配付されるレジュメの要所が空欄になっており、講義中に学生がその空欄を埋めていく形式である。(2)の欠点を補う効果があるものと考えられる。
ロースクールの船出に伴って導入を要請された授業手法である。実際には、米国ロースクールの「ケース・メソッド」の導入であり、そのケース・メソッドで授業を実施するに当たり、教員が学生たちに対して質問をし、学生が答えることを繰り返す方式である。
学生の発言が促されるため、(1)〜(3)の各講義形式とは異なり、学生側の積極的な参加が要請される。判例に関してあらかじめ学生が予習をし、その内容や評価について教員が問いを発し、学生が答える形式である。
しかし、着席している学生を席順に教員が指名していく方法がとられると、発言したくない学生が発言を強要されることになるし、当てられても学生が答えられなかったり、当を得ていない発言をしてしまって恥ずかしい思いをすることになる〈注8〉。そのような経験が繰り返されると学生たちは萎縮し、その授業に出席する動機が減殺されることになる。自分が当たる問題だけを考えて、自分の順番が回ってきて解答を終えると安心し、それ以外に意識が向かないという問題も生ずる。
このような従来型の「講義」の問題点をまとめておこう。
まず第1に、情報提供に偏りがちな点である。情報提供はWebなど授業以外で行うこともできるから、学生の能動的な活動を促すなど、学生の積極的な理解に資する時間を設けることが少ない点が問題である。
第2に、その反射として、学生たちのスキルを養う時間が確保されにくい点である。学生たちが発言したり、論述したり、それを互いに評価しあったり、という知的な活動がなされる時間が少なく、学生の好奇心を刺激したりモチベイションを維持するのが難しい。
第3に、「講義」を続けている限り教員は、学生たちがどの程度理解し、何を理解しておらず、何ができ、使えるようになり、何がまだできないか、といったことを検証できない。学生の現時点での水準を把握して、それに適した授業の内容を提供するということを行いにくい。たとえば条文を読む能力がどの程度身に付いているのかいないのか、それを事実に適用する能力はどうか、条文を読んでそれに該当する事実を上げることができるか否か、できないとするとどこで躓いているのか、といったことは、講義だけをしている限り、把握できない。それでいて期末にいきなり論述試験を行うというのは、学生たちの理解の進捗から乖離している危険性をはらんでいる。
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8) 安念潤司教授は総務省「第6回法科大学院(法曹養成制度)の評価に関する研究会議事録」(2010年1月9日)25ページにおいて以下のように述べる。「次に、ソクラティック・メソッドの機械的な実行はしておりません。ソクラティック・メソッドがいいと信仰している人がおりますが、どこを見てああいうことを言っているんでしょうかね。アメリカの大学でも、ソクラティック・メソッドが成功しているのはアイビーリーグを中心とする極めて優秀な大学だけです。当たり前の話です。ソクラティック・メソッドがいい場合もありますが、それは極めて優秀な教師が極めて優秀な学生とつき合っているときだけでございまして、それ以外では学級崩壊いたします。私もハーバードローに留学しておりましたが、教師も学生もやっぱり優秀ですよ、だけど、学級崩壊になるところを見ました。彼らは授業というのはああいうもんだって思っているから成り立っているだけの話であって、日本の学問、特に日本の法律学は、細部にわたる綿密さを過剰なまでに求めますので、そのようなところでは、ソクラティック・メソッドだけの授業なんて絶対成り立ちません。これ、成り立つと言っている人がいるなら、私、見せていただきたい。お客様から見れば、ソクラティック・メソッドは、大抵の場合、迷惑なんです。そもそも体系的な知識が何にも残りませんからね。 ですから、私も質問や意見を出すようにエンカレッジしますし、雰囲気は盛り上げますが、無理やりに一人一人当てていくなんていうことはしません。特に答えられなかった学生は実は結構傷つくものなんです。今の子はとっても傷つきやすいんです。そんな傷つきやすい子にわざわざ恥をかかせてまでやるほどの価値はありません。つまり、ソクラティック・メソッドというのは、やるべきとき、クラスの雰囲気が盛り上がってきたときにやるといいんです。それは事前に準備していくようなものじゃないんです。その場での雰囲気でやらなきゃいけない。これができない教師はだめです。つまり、学生にとって迷惑です、端的に、と私は思っております。」